Tomb of the Overlord

オーバーロード 元ネタ考察 備忘録

私はな、根本的に自分だけが選ばれたとは考えていないのだ。

アニメ3期8話 及び書籍7巻337p

 

記事タイトルのアインズの台詞は他のプレイヤーの存在を見据えてのものだが、自分はそこにもう一つの「思想」ともいうべき作者の考えを見てしまう。


それは「主人公/プレイヤー・キャラクターだからといって特別な存在ではない、全てのキャラクターは同じ土俵の上で戦っている」という感覚だ。
このような思考はD&D3版系を主としてプレイしてきた人に特に顕著に見られる。

これはなにも「NPCも同じ世界の住人だ」とルールブックに書いてあるから、という訳だけでは無い。

D&D3版系/d20システムではあらゆるキャラクター(1Lv一般人から強大なドラゴン、果ては神様まで)が同一のルールの元にデータが組まれており、モンスターであってもPCと同じようにクラスレベルを取得し様々なカスタマイズが可能となっている。

自然これらデータを運用していくうちにダンジョンマスター、プレイヤー共に「自分たちPCが出来る事は敵/モンスターも出来る」という意識が芽生えてくることになる。

これによりマスターは世界を箱庭として捉えPCだろうが敵NPC/モンスターだろうが平等に扱いガチ志向となりやすく、一方プレイヤーは生き残る為PCたちはあらゆる状況に対応できるように「強く」ならなければいけない、という強迫観念にも似た感覚を持つことになる。


結果、諸国に名が広まるような英雄レベルともなれば、敵対集団からの占術による情報収集やテレポート及び不可視化からの奇襲、毒による暗殺なども考慮して対策するのが常識であり必須となる。このような世界を経験していればアインズがなろう主人公としては慎重すぎるのも至って普通の事だろう。

 

"だからこそ軍拡は必要なんだ。"

アニメでは削られていたが、書籍では上のアインズの台詞にこれが続く。
まるでD&Dパワープレイヤーの言ではないか(てか結局はそこに落ち着くのね…)

 

追記:
"自分の出来ることは他人だって出来る。……もしかするとアンデッド支配で俺を支配できる奴だっているのかもしれない"
――『亡国の吸血姫』より抜粋

まあ上に書いたことと同じような内容を特典小説では悟も言ってたわけだが、D&D界隈でよく言われていた(今もそうなのかな?)この「自分の出来ることは他人にも出来る」という考え方、興味深い事に海外のD&Dプレイヤーたちも同様の認識を共有していたようだ。

"What's good for the goose is good for the gander."

「雌ガチョウに良いものは、雄ガチョウにも良い」=誰にとっても公平であるべき、という意味のことわざ

"If your PC can do it, the monsters can too."

「君のキャラクターにできることは、モンスターにもできる」

"If players can optimize, so can the DM."

「プレイヤーが最適化できるなら、ダンジョンマスターだってできる。」

 

これらの書込みは主にキャラクターの最適化(いわゆるMin-Maxing)に関する議論の中で、過剰に強力なキャラクターを作ろうとするパワーゲーマーへの牽制として、海外のD&Dコミュニティ掲示板に投稿されたものである。

同様の意見は現行ルールであるD&D5版のスレッドでも見受けられるが、ざっと検索した限りでは、やはり3.5版関連の議論の方が圧倒的に多い印象を受ける。

上記でもすでに述べたが、これはD&D3版系、すなわちd20システムの大きな特徴である「PCとNPC/モンスターに同じルールが適用される」という点に起因しているのではないか、と自分は考えている。ルールの公平性を守ることについては、フランク・メンツァーが赤箱の段階ですでにDMに対して説いていたことなのだが、それだけではない3版系特有の「ルールの対称性」が、やがてプレイヤーとDMの間に「公平であるべき」という明確な意識を生み出し、結果としてこうした考え方がコミュニティ内で広く共有されるに至ったのではないだろうか?

まあなんにせよ、ナラティヴ思考が重要視されるようになって久しい今日のTRPG界隈において、「世界をシミュレーションする」「ルールによる判定の結果、物語が生まれる」といったコンセプトのD&D3版系は、もはや古典的アプローチと言ってよいだろう。

だがそんな3版系が『オーバーロード』を始めとするファンタジー小説のいくつかに大きな影響を与えたのは事実であり、D20システムが蒔いたその理念は日本という土壌の上で思いがけないほど大きく成長し、新たな幻想の種を実らせつづけている。